石井十次とは

 石井十次は、日本で最初に孤児院を創設した人物であり、「児童福祉の父」と言われています。

石井十次

石井十次

品子夫人と十次

品子夫人と十次

馬場原朝晩学校

馬場原朝晩学校

孤児教育会の子どもたち

孤児教育会の子どもたち

炭谷小梅

炭谷小梅

(十次の良き相談者)

東北地方冷害災害児救済

東北地方冷害災害児救済

音楽幻燈隊

音楽幻燈隊

ライオン教育

 ライオン教育

(岡山孤児院12則では密室教室)

小学校の校庭で遊ぶ子ども達

小学校の校庭で遊ぶ子ども達

辰子夫人を迎えた新しい家族

辰子夫人を迎えた新しい家族

家族制度・小舎制・共炊共食

家族制度・小舎制・共炊共食

委託制度・里親と里子

委託制度・里親と里子

茶臼原 稲の収穫

茶臼原 稲の収穫

茶臼原 養蚕作業

茶臼原 養蚕作業

長女 友の結婚

 長女 友の結婚

後列 石井十次・石井辰子・炭谷小梅・石井震子

前列 大原孫三郎・児島虎次郎・新婦 友・大原寿恵子

石井十次憲法

石井十次憲法

大原孫三郎(左)|柿原政一郎(右)

大原孫三郎(左)|柿原政一郎(右)

現 社会福祉法人石井記念友愛社

現 社会福祉法人石井記念友愛社

誕生

 石井十次は、慶応元年(1865年)4月11日、高鍋藩の藩士石井萬吉、乃婦子の長男として、宮崎県高鍋町馬場原に生まれた。幼名を萬十郎のち十次と改めた。

幼少から青年へ

 明治2年(4歳)、寺子屋に入り、6歳で明倫堂に学び、父の県庁勤務の都合で9歳から12歳まで宮崎学校に、再び高鍋に帰り12歳から13歳を高鍋学校で学び、一等賞で卒業。晩翠学舎に入ったが14歳で海軍士官を志望して東京の攻玉舎に入学したが、翌年脚気を患い帰郷する。

立志

 明治13年、右大臣・岩倉具視暗殺の嫌疑で51日間鹿児島で収監される。在監中、西郷隆盛の吉野村開墾の話を聞き感銘を受け、無罪釈放されると直ちに友人4人と「五指社」を設立。高鍋町小丸川沿いの荒地の開墾を行う。

結婚

 明治14年、石井十次(16歳)、内埜品子(15歳)と結婚。上江小学校教師。翌年、宮崎警察官の事務官。明治15年(17歳)、宮崎病院院長、荻原百々平の勧めで岡山県甲種医学校(現 岡山大学医学部)に入学。

教育への目覚め

 明治17年、高鍋に帰郷。村の若者を集め、馬場原朝晩学校を開き、昼は働き、朝晩は勉強をした。朝晩学校の青年5人を岡山に呼び漢字塾で学ばせた。しかし資金のめどが立たず、結局彼らは十次から離れていった。しかしこの体験が後に活かされることとなる。また同年11月、岡山キリスト教会牧師、金森通倫から受洗。同日、炭谷小梅と出会う。この頃、信仰の道に進むか、両親の期待する医学の道に進むか悩んでいた。

出会い

 明治20年、岡山県邑久郡大宮村上阿知診療所で代診。四国巡礼帰途の母親から男児を1人預かったのをきっかけに、孤児救済事業を始める。三友禅寺の一画を借り、「孤児教育会」(後に「岡山孤児院」と改称)の看板を掲げた。

 明治時代には社会福祉制度がなかったため、資金は個人の善意や寄付に頼るしかなかった。そこで「孤児教育会趣意書」を作成し、キリスト教関係者に協力を仰ぎ、孤児教育会を会員組織としてキリスト教徒や医学校の同窓生を中心に会員を募り、県内外の人に理解を求めた。

決心

 医学への思いも断ち切れずにいた十次は、明治22年、「人は二主に仕ゆること能わず」との聖句に従い、医書を焼き医学校を退学。この時、児童福祉・教育に専心する覚悟を決める。十次23歳の時であった。

 十次が医学書を燃やしたその年、日本では大日本帝国憲法が発布された。日本は近代国家を目指していく中での急激な背伸びは、ひずみや矛盾、貧困が生まれた。結果、施設では入所者が増える一方であった。それまで義務的に賛助会員より会費を頂いていいたが、神の教えに反するとの思いから会員募集を止め寄付金による運営とした。

救済

 明治24年、名古屋地方を襲った濃尾地震による被災児93名を救済。明治25,26年は、2年続けて岡山市で大洪水があり、院の子どもたちは水防、救助、給食、後片付けなどに出動して町の人に感謝される。

 明治39年、東北地方一帯の冷害による大凶作により、多くの農家が破産、離散状態となった。この被災地救済に着手し6回に分け計825名を岡山に送り保護した。その年の院児数は1200名に達した。

音楽・旅行教育

 明治26年(28歳)、院の子どもたちに自由を与え、また情操を豊かにするため「風琴音楽隊」を設立。明治31年には「音楽幻燈隊」を編成し、広島県尾道市で初公演した。明治36年からは幻灯を活動写真に代えて行い、幻灯や活動写真で院内の様子を説明し、最後に寄付をお願いするようにした。すると、盛大な拍手と激励の言葉が飛び、お金や品物を寄付してくれる人が大勢いた。この演奏旅行は、日本国内はもちろん、朝鮮半島、中国、香港、台湾、遠くはハワイ、アメリカ西海岸までも行き、明治41年まで続いた。

エミール

 明治27年、石井十次は独立自活を目指して、院内に種々の事業を試みるが失敗。また郷里高鍋に設けた殖産事業もうまくいかずにいた頃、フランスの思想家ルソーの「エミール」に感化を受ける。その後、茶臼原の地で農業的労作教育を柱にした「散在的孤児院」(里親村)を作ろうと決意し、やがて「時代教育法」(「幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる」)を編み出した。また茶臼原の原野を開墾し、岡山から茶臼原に全院を移して、自然の中で自由に遊び学ばせる一大ユートピアの建設に取りかかった。

 明治31年、一方、院の中に「岡山孤児院尋常高等小学校」を設立し、午前は勉強、午後は将来社会に出た時の役にたつように実践教育(大工・左官・散髪・印刷・製本・機織り・裁縫など)を行い、実習した。

試練

 明治28年3月、品子夫人の結核を患い病床に臥した。この年、岡山ではコレラが流行。院児や職員、十次自身も感染し入院した。危篤状態に陥りながらも、なんとか退院した二週間後、品子は息を引き取る。お母さんと慕われていた品子さんのいない施設は寂しい毎日となった。

 院の子どもたちの為にも、また我が子の為にもと、十次は院で看護師をしていた吉田辰子さんと再婚した。

バーナードホーム

 明治39年、英国のバーナードホームにならって院内において「家族制度」を実施した。主婦(保育士)を中心に子ども十数人が一緒に暮らす小さな家を次々に建築した。

 院外では委託制度(現在の里親制度)を試みた。さらに大阪のスラムに分院を設け、夜学校、保育所等の事業を行った。(この大阪分院は、石井の没後、石井の後継者の大原孫三郎が引き継ぎ、石井記念愛染園として独立させ、それから後に大原社会問題研究所へと発展)

茶臼原の理想郷つくり

 エミールを読み、大自然がたくさんの茶臼原で、子どもたちを自由に遊ばせ、学ばせ、働かせたいと考えていた十次。

 明治27年、院児60名を宮崎県西都市茶臼原に送り開拓に着手。この開拓事業も一度は挫折するが、明治38年より再開した。

 原野を開墾しながら子どもたちと職員を移し、住む家、小学校の建物などを解体して船に積み、小丸川の河口の港に陸揚げし、馬車に積み替えて10㎞の山坂道を茶臼原まで運んだ。

 開墾した畑には米、麦、大豆、そば、いもなどを作り桑を20万本植えて養蚕を始めた。やがて繭から生糸を紡ぐ作業が盛んになり、十次の描いていた理想の暮らしができるようになっていった。

 明治39年には、茶臼原に農業小学校が設立(後大正2年私立茶臼原尋常小学校となる)。明治45年、茶臼原を「岡山孤児院分院茶臼原孤児院」と称し、岡山には里子だけを残して全移住完了。

 石井十次は、これらの院児が成長したら茶臼原に植民させ、その彼らに里親になってもらおうと考えた。それが実現すれば、キリスト教精神を基盤とした理想的農村共同体ができるはずであった。

石井十次召天

 大正3年1月30日午前11時頃、初孫 児嶋虓一郎が生まれたと電報が来た。それを聞いた十次はわずかに頷き、同日午後2時すぎ、志なかばにして倒れる。48歳であった。

石井十次亡き後…

 岡山孤児院は、大原孫三郎(倉敷紡績社長)、大庭猛(貿易商)、辰子夫人と事業は引き継がれるが、大正15年に一旦閉じられる。

 解散した後、柿原政一郎(県議会議員・議長、宮崎市長、高鍋町長など歴任)が「石井記念協会」を設立し、残された土地、建物、書類、写真などを管理。

 昭和20年8月、第二次世界大戦終戦後、石井十次の孫、児嶋虓一郎は家や家族を亡くした子どもたちの為に、同年10月、児童養護施設をつくる事を決心し「石井記念友愛社」を設立した。

石井十次 家計図